憲法九条第一項に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という言い回しがありますが、この永久という言葉について常々疑問がありました。
今改憲論者たちは「永久」の実体をどうにか変えようとしている訳ですが、じゃあ、「永久」って何だったんだよ!と思い切り突っ込みを入れたくなってしまいます。しかもそれが国の大元を決めている憲法ならなおさら思いを強くします。
一般的に永久というのは何があっても変えてはならない場合、又は変わらない場合に付ける言葉だと思っていました。
広辞苑では「いつまでも変わらずに続くこと」「ながく久しいこと」「長く続くこと」「永遠」となっていますので、必ずしも絶対に変わらないということではないとは思いますが、一般に永久機関などと使えば、未来永劫止まることはないという意味で使いますので、Eternityの意味もあると思います。Eternityを逆引きすると「永久」が2番目くらいに出てきます。
制定当時に、将来あるかもしれない改憲への抑止としてこの「永久」という文言をあえて採用したのかなぁと思ったりします。
当時は「そんなもんじゃ緩い!」っていうことで今と逆の改憲論すらあったと何かで読みました。どのような意図があって、又は意図は無かったのかもしれませんが、抜け道をあえてふさぐような「永久」という語句を九条では使用したのか、とても興味を覚えました。
そこで九条の会しものせきのメンバーで、憲法学が本職の方に聞いてみました。
この問題は「日本国憲法改正の限界の問題」としてこれまで論じられてきたものなんだそうです。
もし憲法改正権の上に、憲法制定権というものがあると仮定すれば、憲法制定権を構成する根本規範(96条の定めるところの)に反しない範囲でしか、憲法改正は出来ないということになり、その範囲を超えた改正を行おうとすれば、より上位の権力(制定権)をも否定することになるので、96条が縛りとなる。
もし上位の権力が無いと仮定するなら、改正権は万能で、それをどのように使ってもいいことになり、限界は無いということになる。
このあたりのころは、頭が悪いのでなかなか理解に苦しむところです。
ともかくも、改憲に限界あるとする限定説と、限界はないとする無限定説の間に議論が交わされて来たようですが、現在では限定説のほうを支持する研究者が多いとのことでした。
限定説では、どういった改憲は認められないとする説があるのかというと、
(A)基本的人権(11条「侵すことのできない永久の権利」)
(B)平和主義(9条)
(C)国民主権原理(前文、1条)
の3点がしばしば取り上げられている。
限定説では、憲法制定者が行使した権利(制定当時は確かにあった訳ですね)「制定権」を「改正権」(国会と国民の協同で行使される)の上位に置いていて、そうなると改正権は万能ではない。
制定権を持つ者が自己否定、自己矛盾するような権利を作ってそれを許すはずはないと考えるのが現在の法学世界の定説なのだそうです。
限定説のメリットとしては、「人々に役立つ規定」=「権力者にとっては鬱陶しい規定」が骨抜きにされないように、いくらかは防げるのではないかという視点もあるとのこと。
限定説には理屈上の整合性のみならず、効用もあるということなんですね。
まあ、私には話し半分くらいしか理解できませんでしたが、学問上も、何でもありの改憲に対しては批判的であるということがなんとなくわかりました。
それと、憲法制定者が敢えて九条に永久という言葉を用いた重みと願いを強く感じました。
教えてくださった憲法学者の先生が最後に書かれた言葉が印象的でした。
もし権力者にまどわされないしっかりした意見を持つ主権者が大半であれば、無限定説に立つ方がよりよい世の中を作れるかもしれない。
確かにその通りですね。